せんと君と知事の発言-行政の芸術への介入はいかにあるべきか-
少し古くて誰も注目していなかったと思うけど、おもしろい新聞記事があった。
平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターが賛否両論に分かれている問題で、奈良県の荒井正吾知事は、2008年3月12日の定例会見で、市民団体などが求めている撤回を考えていないことを明らかにした。
荒井知事は、その理由について、「(意見に)流される必要はない。行政が芸術の尊厳を冒してはいけない」と説明した。また、キャラクターについては、「大好きです。最初に見たときから素晴らしいと思った」と賞賛した。
同県によると、マスコットの愛称公募は、1万件以上に達しており、選考を経て4月に発表する予定。
僕は奈良県大和郡山市の出身で市役所にも勤務していたので、せんと君については注目していたし、デザインでここまで大騒ぎにもなるとは思わなかった。また、最近になってせんと君の人気が急上昇とも聞くので、荒井知事の発言は立派なように映る。
それだけじゃない。行政や権力というものが芸術に介入しないというのは至極真っ当な発言だと思う。少し前までは後藤田正晴副総理が「権力の怖さを知る者は簡単に介入しない」というような発言をしていたが、1990年代以降だろうか、この種の発言が至極真っ当だと受け止められない世の中の変化に驚かされる。
その一方で、行政や権力が様々なところに介入しても、誰も異論を差し挟まないケースの方が多い。例えば、橋下知事の教育委員会への介入に見られるように、都道府県知事の中には教育行政への介入を公然と主張する者も多い。橋下が大好きな「俺が責任をとる」と言えば、誰も教育への権力の介入を疑問視しない。「どういう形の責任の取り方をするのか」ということを一度は聞いてみたい気もするが・・・。
かくいう私も行政の教育への介入を100%否定するような気持ちにはなれない。僕自身が1990年代以降の申し子なのかどうかは知らないが、今のような教育行政の体制では誰が責任を取るのかがはっきりせず、無責任極まりないからである。これは初等教育・中等教育・高等教育・大学教育を問わないだろう。誰が責任と情熱をもって教育を進めていこうとするのかが見えない。それに対する苛立ちは多くの人が持っているということだ。
こんな状態になったのはなぜか。様々な理由が考えられる。それを論じ出せば、また、ブログを書くのをやめてしまうので、あえて原因を絞ろう。それは、芸術でも教育でもプロフェッショナルが怠けたのが大きな要因だろう。「先生」と呼ばれる人間が真摯に教育というものを追求して、世間にきちんと説明していれば、ここまで教育業界に不利な世論が形成されていたとは思えない。
自分達の独立や誇りを労働条件の維持とはき違えたということはないのかもしれないが、長い年月の中で、世間や世俗から隔絶するために本来払うべき犠牲を払ってこなかったのだ。だからこその体たらくである。
どんな優れた人でも組織でも、何の監視もなく独立性を保たせれば、やはり機能しなくなるということなのかもしれない。
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