2009/6/11 木曜日

冤罪と国家が謝ることの意味について

Filed under: ニュース — 中野雅至 @ 12:24 PM

昨日は1日ほとんど、大阪大学付属図書館で調べモノをしていたため、ブログを書くことができなかった。このままずるずると書かなくなってしまう・・と懸念しながらも、久々に一日仕事で人事興信録などに向き合っていると、疲れ果ててしまった。こんな作業をおもしろいという人こそ学者に向いているのかもしれないが、どうもこの種の細かな仕事は昔から苦手だ。よほどストレスがたまっているのだろうか、この種の仕事をした後はやけに甘いものが食べたくなる。

それはさておき、今日は「役所の謝る」という行為について少し考えてみよう。次の新聞記事をみてみると、検察という組織もやはり「謝る」というのは嫌みたいだ。

足利事件、検察が謝罪=「真犯人でない人起訴」-早期再審実現に対応指示・最高検

6月10日16時9分配信 時事通信
足利事件の再審請求即時抗告審で、無期懲役刑の執行停止により釈放された菅家利和さん(62)について、最高検の伊藤鉄男次長検事は10日、最高検で記者会見し、「検察としては、真犯人と思われない人を起訴し、服役させたことは、大変申し訳ないと思っている」と述べ、検察として初めて謝罪した。再審前に無罪を前提に検察が謝罪するのは極めて異例。菅家さん本人に対しては「(再審請求審の)推移を踏まえて早急に対応したい」と述べ、近く検察が直接謝罪する意向を示した。また、「速やかに再審開始決定がなされ、再審公判で早急に判決が言い渡されるよう適切な対応を東京高検に指示した」と話し、再審では無罪の論告をする意向であることを明らかにした。

人の人生を何十年も拘束して、親は自分の息子の無実を見ぬままに亡くなっているのに、こんな謝罪ですまされてはたまらない。少なくとも本人の目の前で涙流して謝れよと思うのは人情だろう。僕もそう思う。最近は、検察の「国策捜査」などの傲慢な行いもあるだけに、一層そういう思いを強くしている人も多いかもしれない。僕のような素人の目からみても、検察に関するマスコミ報道の贔屓は少しおかしい気がする。

それはさておき、どうして検察も含めて役所は謝らないんだろう。

国家賠償の枠組みなど様々なことがあるだろうが、①「国家は間違わない」ということが犯すべからず大前提になっているということ、②不祥事は大半の場合、過去のことで現在の役人には当事者意識が欠けているどころか、場合によっては「こっちも被害者だ」という意識がどこかにあること、③組織的な意思決定で行われているだけにトップを含めて個々人に罪悪感が乏しいこと、④その時々では、ベストを尽くしたという勝手な意識もどこかにあること、⑤過ちを認めた場合にものすご反響が出てくることを懸念するということだろう。薬害や公害、原爆認定などの裁判が典型的な事例である。旧厚生省の訴訟などはほとんどそうだ。僕の上司でも「厚生省だけは嫌だった。あんな裁判で悪者になるのだけは嫌だった」という人がいた。

民主化どころか世はポストモダンと言われて、個々人の価値観が重視される時代。個々人の自覚もあるのに、役所は「大衆は要求をエスカレートさせるバカな存在」と見なして訴訟をしていると世間から見なされるし、役所自身はモラルが破綻した不祥事を続発させて、「国民にはモラルハザードが生じる恐れがある」という前提で裁判を戦うのだから、そんな商売をやりたくないというのは自然なことだ。

その一方で、こんな白々しい国家や政府と真逆の態度をとる人間は世間から大人気だ。例えば、物事に素直な人間がそうだろう。どこかの知事は「間違ってました」「僕の見込み違いでした」と言うたびに、それまでの暴言はすべて帳消しにされて、ネット上では「なんて素直な人なんだ。橋下知事は」(あ、・・・)と賞賛されてもいた。人間の心底を覗いてもいない軽薄な論評だが、まぁ、役人から見れば、こんなことを言う大衆だからこそモラルハザードが起きると思いこんでしまうのだが・・・・

話が脱線続きだが、謝らないことは悪いにしても、謝らないからこその威厳なんてものもあるし、謝らないからこそ、国家だということもある。役所内部の個々の要因を辿るとと「無責任な・・」と思うこともあるのだが、国家や政府が頻繁に簡単に謝るということの影響って、もう少し真面目に考える必要があるんではないだろうか。もちろん、謝るかどうかを悩まなくていいだけの仕事をするのが最も望ましいのだが・・・。少なくとも、外国でも国内でも政府がそんなに簡単に謝るのであれば、最終的な威厳などどこにも存在しなくなるし、社会の規範というものはおそらくなくなってしまうのではないだろうか。もし簡単に謝罪する国があるなら、教えて欲しい。

その意味で、政治家は本当に国家を体現しているんだろうか。役所は必至でフィクションを守ろうとする。白々しいし、世間から嫌われるし、非人道的だけど、必至で国家のフィクションを守ろうとするのに対して、政治家は人気取りだけのために国民に涙を見せて、素直に謝ったりする。こんな人間が明治維新の志士きどりだけで、本当に国家を変革できるんでしょうかね。関西弁で言えば、単なる「ええかっこしいやん」ということになる。「んー」と悩むのだが、少なくとも、もう少し国家ごっこのできる政治家が増える方が日本も良くなる気がするが・・。

ちなみに、役所は謝らないというが、企業も謝らない。どこかのテレビ番組はすぐに「民間企業なら即座に謝罪ですが・・」という表現を役所との対比で頻繁に使うが、少なくとも企業は簡単に謝らない。官民問わずに組織は簡単に謝らないというのは、どこの国でも同じだと思うが・・・。

ただ、冤罪がこれだけ増えてきて、ひどい取り調べの実態が明るみに出て、国策捜査がここまで話題になって、痴漢冤罪をはじめとして冤罪がここまで一般人にも身近になっているのだから、治安当局は何らかの総括くらいはすべきだろう。謝るなら中途半端ではなく、きちんと本人に謝ることを含めて。

どっちに結論がいくのか難しい問題だが、このブログを書いていて思うが、ブログは本当にこういう難しいトピックには向いてない。少なくとも、ブログでこの問題を論じるだけの文章センスも時間も僕にはない。

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