2009/6/15 月曜日

小泉純一郎と田中角栄との対比から考える政治家の生き方

Filed under: 近況報告 — 中野雅至 @ 1:29 PM

大学教員にも人事評価はある。否、大学教員のような個人業だからこそ、人事評価ははっきりしていてわかりやすいということもある。

人事評価は研究実績・教育実績・社会貢献などに分かれるが、今年も人事評価項の評価シートを書いていて、昨年度はテレビ出演が異様に多かったことがわかった。その一方で、学術書籍も論文も皆無に近く、オピニオン誌への雑文(学術論文だと言い張ることもできるんですが・・・)が多かった。少し反省しなければと思いながら、この夏出版予定の「天下り研究」という学術図書に一層の力を入れている日々です。

今年は何とか学術図書を一冊書きましたと言えそうだと安心しながら、「そう言えば、最近、テレビに出てないな。何か少し寂しいな」という変な感覚になっていることに気が付いた。芸能人じゃないんだから、「当たり前じゃん」と思うのだが、専門家と大衆の切れ目がわからなくなるポストモダン(これから苦しい時は、新進気鋭の評論家のように、何でもポストモダンにしてやろうと思う今日この頃ですが)には、こんな感情になっている学者や評論家は意外と多いかもしれない。

テレビ局の華やかな雰囲気、生番組などは特にそうだが何とも言えない興奮感覚、非日常的な感覚と言っていいかもしれない。学者のような時間が余って仕方ない孤独業の人間には、ちょうど良い刺激になってんでしょうな。当時は「緊張して言葉に詰まらないかな」とか「緊張で倒れないかな」とか変な心配をしながらも、割合、テレビに体質が合っていたのかもしれないのかなとか思いながら、テレビで目立つことで政治家に転身するタレント政治家に思いを馳せてみた。

彼らはおそらく目立つことが好きだったんでしょうな。そして、自分の発言や行動が多くの人を熱狂させることにも生き甲斐を感じているんでしょうな。その一方で、日々、なんか変な不安があるのもしれませんね。私のような特定の問題の専門家がブームが去るととともにテレビから消えていくように、「自分もいつか大衆から飽きられるんじゃないか」という怖さに追われているんじゃないだろうか。

そう思うと、自分で理念を練り上げて、自分の足で何かを築き上げる方が「何かが残っている」という確かな感覚を持てるような気がする。自分の足で動ければ、影響を与えることができる範囲は狭いかもしれないが、芸能界やマスコミのブームとは関係なく、未来永劫続いていくらかだ。確かに、地道な活動だから時間がかかるかもしれない。タレント政治家のように効率的に政治家になったり、影響を与えるような存在にはなれないのかもしれないが、そちらの方が長い目で見れば納得がいくんじゃないだろうか。もちろん、「いつかは大衆に飽きられるんじゃないか?」という恐怖感や焦燥感がなければ、効率的にメディアを利用するというのはいいのかもしれないが・・・。

例えば、政治家で言えば小泉純一郎と田中角栄。どちらも国民的人気のある政治家だが、晩年は今のところ随分と違う。小泉はこのままだと人気を維持したまま、引退することになるが、田中角栄の老後はそれなりにミジメだったような気がする。しかし、新潟の選挙区では全く人気が衰えることはなかったことは有名で、やはり、自分の足で何かを地道に築いてきたからなんだろう。そんなことを考えると、空虚な大衆感情と人気に支えられた人生よりも、一部の人間に心底支えられた人生だとして満足度が高かったような気さえする。もちろん空想なんですが・・・

そんなことを想像しながら、今年は僕も「運動しよう」と思うのでした。ヨガでもなく水泳でもなくウォーキング、ということではない。こんな文章は書いていて恥ずかしいが、政治運動ということでもなく、世の中の一部に少しでもプラスの影響を与えられるような地道な運動を、地道に続けていこうという気になってきました。

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